さくペラ

さくっとぺらいちというサイトのつづき

コンピュータグラフィックスの歩み

80GBのポータブルHDを買ってきて、データの掃除中なのですが、昔書いたテキストファイルに見入ってしまって、全然はかどりません。

中でも大学在学中にまとめた、コンピュータグラフィックスの歩みをまとめたテキストがかなり充実したものなので、ここに載せちゃおうかなぁと。一部、AppleILMなどもでてきます。


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CGの誕生(1950-60年代)

コンピュータグラフィックスの元祖はやはり戦争がらみだった。50年代、ソビエトはアメリカよりも早くICBM(大陸間弾道ミサイル)の開発に成功した。この核の脅威にアメリカは今のTMD(爆撃機やミサイルなどに対し、対空ミサイルで迎撃するシステム)の元となるSAGEというシステムを開発した。1958年のことだ。このシステムの核となるコンピュータに初めてCRTモニターが搭載された。これがCGの始まりだといえる。
また、SAGEの副産物としてMIT(マサチューセッツ工科大学)が当時世界最大のコンピュータWHIRL WINDを開発した。これはCRTに表示された爆撃機の映像に対しライトガンと言う入力装置で直接指示を与えるものである。この開発者達がCGの世界を切り開いていくことになる。
WHIRL WINDの開発に参加したARPA(国防省の研究所)のリック・ライダーはアイバーン・サザーランドという天才青年と出会い、後任を彼に任せた。サザーランドは1961年院生だった頃、SAGE研究により開発されたCRTとライトガンを搭載した大型コンピュータ「TX-2」を使い、SKETCHPADというインタラクティブCGシステムを作っていた。
1964年、ARPAに入った彼は潤沢な資金の元で頭にかぶるディスプレイ「ヘッド・マウント・ディスプレイ(HMD)」を開発する。
サザーランドはこの後ハーバード大に移籍したが、1968年、ユタ大学のデイビッド・エバンス教授が彼をCGの講師として呼び寄せた。このことをきっかけに世界中からCGに興味のある人がユタ大学に集まることとなる。
一方、サザーランドと並ぶもう一人のCGの先駆者にジョン・ウィットニーがいる。彼はカメラやビデオをアナログコンピュータで制御し複雑な光のパターンや抽象図形を作った。また、CMなどの制作も手がけた。
1966年にはIBMの援助を受け世界初のグラフィック専用コンピュータIBM-2250を入手。数多くのCG作品を作っていった。
また、60年代には第一次CGアートブームがおこった。「コンピュータ&オートメイション」 誌が主催したアートコンテストが火をつけたのだ。また、フラワーチルドレンによるサイケなCGや反ベトナム戦争と言う意味でのコンピュータの平和的利用法としてもCGは注目を浴びた。
また、1968年には現在の一般的な3Dレンダリング方式である「レイ・トレーシング」の元となった「レイ・キャスティング」のアルゴリズムをIBMのアッサー・アッペルが開発した。しかしその膨大な計算量 から当時のマシンでは時間がかかりすぎるため一切無視されることとなる。(泣)


ユタ大学グループの研究(1968〜1974)

エバンスとサザーランドの元には現在のコンピュータ業界を引っ張っている人々が集まった。主なところは次の通 り。
● ジェームズ・クラーク→ジオメトリエンジンの開発者で、SGI(シリコングラフィックス社)を旗揚げした人。現ネットスケープ会長
● ジョン・ワーノック→アドビ・システムズの創立者で現社長。ポストスクリプトを開発した。
● ジェームス・ブリン→惑星探査機ボイジャーの3Dシュミレーションで有名。元NASA。現マイクロソフト
● アラン・ケイDYNABOOKの提唱者で、今のパソコンの基礎となるマシンALTOを開発。ゼロックスからアタリ社を経てアップルへ。現在はディズニー社に在籍。
● ノーラン・ブッシュネル→元アタリ社長。TVゲームの原型PONGの開発者
● エドウィン・カットマル→ルーカスフィルムのCG部門の部長を経て、3DプロダクションPIXERの社長をつとめる。
● アンリ・グーロー→シェーディング・アルゴリズムの提唱者。
もちろんユタ大学に集まったときこんなことになるなんて誰も分からない。

ユタ大学での数年の研究期間で3Dの基礎は完成してしまう。彼らは、3D図形のモデリング。隠面 消去のアルゴリズム。シェーディング、各種マッピング、様々なレンダリング方式(ラジオシティとか)やフェイシャル・アニメーション、ハードではディスプレイ、3Dデジタイザの開発などを行った。
また、エバンスとサザーランドは大学内にE&Sという会社を設立。大学で開発したハードウェアの販売、フライトシュミレート装置「NOVOVIEW」の開発、また 3DCGシステム「LDS-1と2」の開発などを行いCGの商業化へ道を開いた。

そんな中暗雲が訪れる。74年、ベトナム戦争激化のなかCGの軍事利用を考えるARPAと平和利用を考える研究者との間で対立が生じた。結局ARPAは軍事機関DARPAとなり資金提供はうち切られ、ユタ大学の研究グループは解散に追い込まれた。


PARCとNYIT(1970年代)

ユタ大学の研究部が解散した後、研究者達は二つの研究所に分かれてそれぞれの道を歩むことになる。一つはPARC(ゼロックスのパロアルト研究所)。もう一つはNYIT(ニューヨーク工科大)だ。

PARCへはアラン・ケイ、ジョン・ワーノックらが移籍した。アラン・ケイは1972年ここでDYNABOOKを提唱 し、翌73年試作機ALTOを開発した。ALTOにはアイコン、ウィンドウ、プルダウンメニューのGUIやビットマップディスプレイを装備していて現在のパソコンの基礎となっている。ALTOを見学に来る人が後を絶たず、その中の一人スティーブ・ジョブズが自分の会社でALTOにあたるマシンを開発しようと考えた。これが1983年のLISA、84年のMACINTOSHへと繋がっていくことになる。
しかし、ゼロックスはALTOに関心を示さずアランはアタリを経てアップルに入社した。
ワーノックもPARCでプリンティング・プロトコル「インタープレス」を開発するが、ゼロックスと考え方の違いから衝突!彼は同僚のチャールズ・ゲシキとともに独立してアドビ社を設立し、ここでハードに依存しない画期的なPDLである「ポストスクリプト」の開発に成功する。
また、PARC組のアルビィ・レイ・スミスとディック・ショープはコンピュータで絵を描くシステム「ペイントシステム」を開発するが、やはり(笑)ゼロックスの理解を得られずスミスはNYITへ、ショープは独立して成功を収めた。

さて、もう一つのグループNYITである。NYITは初めCTスキャンの研究をしていた。やがてCGの必要性を感じ大学内にCGラボを設立。ここにユタ大からの研究者が押し寄せた。
ここではTV用のセルアニメや3DCGアニメーションによるTV制作などの活動が行われた。とくに2DCGの特殊効果 や合成の技術は素晴らしくSIGGRAPHのショーなどで人気を博した。


そのほかの動き(1970年代〜1980)

1980年、AT&Tベル研究所のターナー・ウィッテッドがアッサー・アッペルのレイ・キャスティングを応用して、レイ・トレーシングのアルゴリズムを発表した。やはり計算に時間がかかったが出来てくる画像のリアルさから多くの人が注目し、研究が盛んになっていった。

IBMトーマス・ワトソン研究所のリチャード・ヴォスは同僚のベノワ・マンデルブロが提唱したフラクタル・アルゴリズムを3Dに応用した。これにより波や山脈、木や雲といった自然物の表現が出来るようになった。この流れは現在カイ・クラウスに受け継がれている。

カリフォルニア工科大の日系人、ジェームズ・カジヤの活動は世界中のCG研究家の注目を集めた。彼は雲のボリュームレンダリングレイトレーシングの高速化。レイトレーシングとラジオシティーの統一、自由曲面 のレンダリング、毛皮を生成するアルゴリズムなどを研究した。

また、数学者からのアプローチというのもあった。1970〜76年に掛けて数学者ネルソン・マックスが中心となりトポロジー・プロジェクトという物が行われた。CGによる多変曲面 のビジュアル化である。その後彼は核融合や分子構造。DNAのCG化などを行った。また、自然をテーマにしたCGアートなども精力的に制作した。


DTP環境の成立(1984)

1982年、アドビがポストスクリプトを開発。84年にはアップルがマッキントッシュを販売。このマシンは初めからグラフィックとテキストが並列に扱われる仕組みになっていた。マック・ペイントと言うソフトである。また、アップルは高品質プリンター「レーザーライター」を発売。このプリンターはアドビとの協力下ポストスクリプト対応プリンターとなった。
また同じ年にアルダス社がDTPを提唱し、マック上で動くDTPソフト「ファイルメーカー」を発売。一気にDTPの環境が整った。 これがあったからこそ印刷業界で未だにマックの優位が変わらないのである。ちゃんちゃん。

また、アドビシステムズ社は87年にポストスクリプトを図版に応用したソフト「アドビ・イラストレーター」を発売。
また、90年には高度な2D画像編集処理機能を持ったソフト「アドビ・フォトショップ」を発売。このソフトはそれまでイスラエルのサイテックス社のCEPSといううん千万もするシステムでしかできなかった画像処理を、一気にパソコンで出来るようにしてしまった。
この二つのソフトは未だに業界標準のソフトであり他のソフトウェアをリードしている。(印刷からWEBに移行している最近ではマクロメディアに押されてるかなぁ、、、。)


3Dの映画への応用(1980〜90年代)

ユタ大を辞めたサザーランドとウィットニーの息子ウィットニー・ジュニアはCGのハリウッドへの売り込みを考えていた。ジュニアは彼の父親との関係があったIII(トリプル・アイ社)にCGプロダクションを設立。ここにユタ大の研究者らが集まった。
77年にはジョージ・ルーカスがトリプル・アイに注目。スターウォーズの続編の制作を依頼するが資金の関係で見送りになる。
その後、ルーカスは自分の会社の中にコンピュータ部門を作った。そこは皮肉にもNYITの人が中心となった。
1982年、ディズニーがCGをふんだんに盛り込んだ初の作品「トロン」を制作。興行成績は「E.T.」に押されて芳しくなかったが、これをきっかけにCGプロダクションの設立ブームが起きた。
● デジタルプロダクション→トリプルアイにいたウィットニー・ジュニアが独立して出来た会社。当時世界最高のスーパーコンピュータCRAY/X-MPを導入して映画「スター・ファイター」を制作する。しかし、スパコンのコストが大きく86年カナダのオムニバス社に買収される。
エイブルイメージリサーチ→ワイヤーフレームのアニメーションで有名になったロバートエイブル&アソシエイツのCG部門の会社。数多くの名作CMを制作したが採算が合わず、86年オムニバス社に吸収される。

と、まあ二つともオムニバス社に取り込まれるのだが、等のオムニバス社は数ヶ月で倒産。ここでまた業界の再編が起きる。その中でも有名なのがこの会社。

●リズム&ヒューズ →元エイブル社のジョン・ヒューズが設立。実写 とCGの合成が売りであの「ベイブ」を手がけたことで有名。

ほかにも映画会社の中に設立されたCGプロダクションが多くある。その中でも有名なのがルーカスフィルム/PIXERだ。
上記したように、ジョージ・ルーカスは79年に自社内にCGプロダクションを作った。そこのボスのエドウィン・マックネルはルーカスの要求を満たすのに四苦八苦。結局資金提供がうち切られ、独立して社名をPIXERとした。
当初の主な仕事は画像処理専用マシン「ピクサーイメージコンピュータ」の販売だった。しかし、ルーカスフィルム時代にディズニーから招いたジョン・ラセターを監督に制作した「ティン・トイ」がアカデミー賞を取り一躍有名に。また、コンピュータは売れず、90年に部門ごと売却した。その変わりCMの請負を始めたところこれが当たった。さらに、ルーカスの要求を満たそうと作った3Dソフト「レンダーマン」を発売したところたちまちに売れ、これも当たった。
その後、映画の方でも世界初のオールCGムービーである「トイ・ストーリー」、「バグズ・ライフ」、「トイ・ストーリー2」と立て続けにヒットを飛ばし成功を収めている。

ここで少し話が戻るが、PIXERが独立した後、ルーカスは自社の特撮部門であったインダストリアル・ライト&マジック社(ILM)にCG部門を作った。昔のCG部門に比べ小さく地味な存在だったが映画「アビス」で成功を収める。これに触発されたジェームズ・キャメロン監督が「ターミネーター2」を構想しILMと共同で制作、これも大ヒットとなった。
ILMはその後「ジュラシック・パーク」や「フォレスト・ガンプ」なども手がけている。

他にも「マーズアタック」のワーナーデジタルスタジオ(97年に解散)や「コンタクト」のソニーピクチャーイメージワークスなどがある。


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なんでこんなテキストをまとめたのかイマイチ覚えてないですが、現在業界を仕切っている企業がどうやってできたのか知る手がかりになったので、決して無駄じゃなかったなぁと思います。