さくペラ

さくっとぺらいちというサイトのつづき

結構疲れているので、癒すための文章。

昔から、結構疲れたことがあると、自分を癒すために文章を書いていました。今それを読む気にはあまりなれないのですが、いわば心のアルバムのような者です。
今も結構疲れてます。なのでつらつら書いてみます。

疲れている原因はわかっています。前に歩き出さない自分自身。バンジーの上でうじうじしている感じ。飛び出して見ちゃえばいいのに。なんか一歩踏み出せないんですよね。
地面にたたきつけられて傷だらけになって死んでしまう訳じゃないのにね。でも、それに近いものはあるかもしれない。違った意味で。でも自分を守ったって、そんな者は取るに足らない者だとも思う。
物を持ってしまうと、そういう感覚がどんどん薄れてしまう気がする。

そんな思考自体が、忙しい仕事の中で奪われていくんだけれど。子供の頃思った。大人って長い時間仕事して、苦痛じゃないのか。自分にそれができるだろうか?今も思うよ。何年も今の職業が続けられるだろうかって?
一定の回答はこたえられる。仕事をしていると、人の頭はそれに心が奪われて、それ以外のことは余計なこととして何も考えなくなっていくんだと。仕事はノルマだから、減らない。終わるとすぐに次がくる。それを片付ける。その繰り返し。チャップリンのモダンタイムズみたいな。あんな感じ。だと。

それで、他人が考えたストーリーを消費して、五感を揺さぶってわかったつもりになる。TVの洗脳ぶりなんてハンパ無い。

幸い、自我にうまく目覚められたので、TVが無くても寂しいと言うことは思わない。寂しいと思うのは、2人でいる心地よさを味わった後、一人にさせられるときか。

沈黙を愛した。今は音楽を愛す。

だから大丈夫だ。そう、自分は大丈夫なんだ。

だから、もう自分のことは良いのかもしれない。つまらない人間のままいるのもそろそろ飽きてきた。
人を楽しませるための人、人によって心地よい人。人を受け入れられる人。

結構、実践はしているつもりだけれども。あでやかな花が無いからあまりぱっとしないんだよね。

他人を飽きさせない驚きとか、でもそういう物って些末な物なんだと思う。自分のコアにある欲望?他人を知りたいという欲求?
その辺が足りないんじゃないかな。

とっくの昔に他人とは分かり合えないと絶望してしまったから、そこで歩みが止まってしまっているのではないだろうか?

子供の頃よくあったフレーズの「ユニゾン」。最近もたまにあるけれど、それはJoJoのジョセフみたいに、分かり切っている近未来のフレーズをタイミング併せて行っているに過ぎないのかもしれない。

「ユニゾン」した人の思いはだいぶん近い。


そういう人は大切にすべきなんだろう。


あいつとはだいぶ会ってないな。また飲みに行こうか。終わりのない答えを探すために。