さくペラ

さくっとぺらいちというサイトのつづき

自分を知ること

久々に昨日、ライブに行って思ったことがあります。会社の元同僚から1枚チケットを買っていったんですけど、別に一人で行ってもどうということはないという感覚に今なっているんですよね。
今まで、友達と大勢でフェスに何回も言ったんですけど、行く度に結局現地でバラバラになるんだから一人で行くのと大差ないじゃない的なところと、現代は情報過多な時代なので、あまりに一人一人のバックグラウンドが離れてしまっていて、他人を理解することが本当に難しいし、本当の意味での共感ってなかなかしにくいものなのだと言うところに気づいてしまったからなのです。


ただ、そう安易に結論づけてしまってすまされるものなのだろうかとも思ったりします。価値観が多様になればなるほど、人は離れてしまうし、理解するのが困難になる反面、誰かに理解されたいという思いが強くなります。
そんな自分自身を見つめ直すことが、他者を理解する上で重要なのではないかと思うようになりました。

共感というのは個々の感動の自己満足かもしれないけれど、どこかで想いがシンクロすれば、意外と人ってそのつながりを大事にするんじゃないかなあと思ったり。自分自身もそうだし。

人は情報データベースではなくて、自我があって自分の自由意志で行動する存在なのだから、それを理解する行為というのは難しいけれども、自分自身もそうなのだから、自分を理解しないといけないと。すごく哲学的ですけど。実存主義的な。


他者をみることはできても、他者の思いを知ることはどんなに難しいことか。未だにおいらはそこまでたどり着けない。子供の頃はほとんどのシチュエーションでも他者が考えていることがわかったような気がするんですけど、今となっては、自分自身すら難解な難物になってしまったように思えます。

自分の行動規範は何なのだろうとか、軽いところで言うと、どうして恋をしなくなってしまったのだろうとか、どうして他者の奥深くまで入らないようなってしまったのだろうとか。
いや、他者への興味がどんどん薄れてしまっているのはいったいなぜなんだろうと。高校時代は人自体に興味があったし、文学作品も読みあさった、ロックを聴きまくった、哲学を勉強しまくった、友人と何時間も哲学的な討論をした、あの熱がどんどん放たれてしまって、今取り残された自分はいったい何なのだろうと。

コンテンツを消費して、情報を消費して、求めている先のものってただ知的欲求を満たしているだけなのではないかと。

結局コアにあるものは欲求だけで、盲目の存在になってしまっているんじゃないかなと。

コンテンツは「他者を知る」手がかりという方向性が放散してしまっていて、自分を知る手がかりにもなっていない…。昔はこんなんじゃなかったんだけれど、どうしたらこの気持ちをつなぎ止めてられるだろうか…本当に思い悩みます。


宗教ってそういうところから生まれたのかなと、ふと思ったり。行動規範を社会のルールにしてしまえば、人が迷うことも少ないわけで。ただ、それを管理するのが人だから、都合よくねじ曲げられ、悲惨な歴史を積み上げてきたというのも事実なのですけれど。


無宗教かつ高度情報化の時代で、人が人としていられるにはどうしたらいいのだろう?人が人を理解し合えることって本当にあるのだろうか?


今思い出したんだけれども、昔つきあった人と別れた原因はまさにそれで。「知識を共有」しても「その人を理解したことにはならない」ことを思い知らされたんですよね。それ以来つきあってないや。なんかもう疲れちゃったんですよね。

人が理解されてうれしいことって何でしょうか?知識が共有されることも確かにそうなんだけど、それは錯覚しているとしか思えないんですよね。同じアーティストが好きだとか、作家が好きだとかって。そうじゃない。いくら同じものに興味があって話しても、その間は楽しいけれども、いつまでたってもそこから先は見えないんですよね。
それに対してどういう考えを持っているか?まで話が及べばだんだん輪郭が見えてくる。その人の人となりというか。ただ、そこまで見えてもそこから先には進めない。

なぜなら、高度情報化時代なので、趣味が細分化してもその際分化した中での接点というのが作りやすいから。特にSNSなんてそう。昔だったらマイナーなバンドが好きという部分で共感しあえたら、その人はすごく貴重だったかもしれない。今はその重みというのがどんどん軽くなってきている気がします。
本当にマイナーすぎるバンドだったらあるかもしれないけれど、果たしてそんなバンド自分自身が好きになれるかどうかも怪しいものです。無理してコンテンツを消費したってしょうがない。

そうやってどんどんマニアックな方向へ進んでいくと、自分自身を難解なものに自分自身でしているのです。

その自分は本当に自分なのかと問いたい、問い詰めたい、小一時間ほど問い詰めたい。



…こんな文章果たしてwebに乗っけていいものなのだろうか?と思ったり…


ネットの片隅に合ってもいいかな?どうだろう。