さくペラ

さくっとぺらいちというサイトのつづき

学校で習う英文法について

高校受験までは、学校で習う英語に付いてあまり違和感がありませんでした。「英語を読む=暗号を解く」というプロセスが頭の中に染み付いていたからです。
また、出てくる文法も簡易なものが多く、理解にそれほど苦労はしませんでした。

それが高校に入って一変します。

中学では簡単そうに見えた英語が、解読不能な暗号文のように思えてきたからです。それは今まで習ってきた文法に「例外」があり、このときのこの単語の意味は全然違ったものになる。と言われた辺りから。
文脈によって変幻自在に意味が変わってしまう動詞、前置詞、名詞などが次々と出現してもう手に負えなくなってしまいました。


そこではたと気づきます。英語をしゃべる人は本当にこんなにいろんな意味を使い分けてしゃべっているのだろうか?文法も複雑だし。と思うようになりました。
また、英語と日本語を無理矢理1対1対応させ、意味が通らないときは「イディオム」と読んでゴミ箱に押し込めるようにしている学校文法自体、欠陥だらけなのではと思うようになりました。

そもそも「イディオム」っていうのは慣用句・常套句のこと。動詞+前置詞の組み合わせがイディオムなはず無いです。


そこで、そういった主張をしている本を本屋や図書館であさりました。そしたら以外にもあっさり見つかりました。
これ⇒http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480056416/249-0641271-6403546
ただ読んで思ったのが学校英文法の欠陥を言い当てているんですけど、そこで終わっている点。凄くフラストレーションが高まりました。

ただこの本から重要なエッセンスは直感的に得られました。「日本語単語」=「英語単語」の関係が90%ぐらいぶれていなくても、文法を使い文章にしてしまったときに、「日本語」=「英語」の意味的関係は崩れ去ってしまうことに。

それは文章構造自体に「意味」があり、日本語と英語の間にはそれを一致させる文章構造はほとんどない。と言うことと、文章として「日本語」=「英語」を実現させるには全く違う文章を持ちいらなければならないこと。
そして、そこでの手がかりは「文法」ではなくて、「シチュエーション」だ。ということまで考えが及びました。

そこでまた、都立図書館などに行き学術書をあさるようになりました。自分に近い考えを持っている学者はいないか探しました。はじめは言語学のコーナーで祭り上げられていたノーム・チョムスキー生成文法に目がいきましたが、すぐにこれは全く役に立たないことを悟り、ついに「認知意味論」という本にたどり着く訳です。(つづく)