さくペラ

さくっとぺらいちというサイトのつづき

英文法について::認知意味論との出会い

まず、私が認知意味論に惹かれた大きな理由はなんだろうかと振り返ってみます。

言語学の中で大きな位置を占める「生成文法」と言うのは本当に欧米的な考え方で、言語のポジションによって意味が変わるから、そのパターンを洗い出せば簡単に言語変換できるんじゃない?という浅はかなもの。
日本語のように助詞とセットであれば文脈のどの位置にきても意味が通る文章などでは、この考え方は全く足り立ちません。
結局、様々な言語の解析と乖離度の調査に終始してしまうことになります。断っておきますがそれが意味ないことだとは思っていません。古代語がどの言語に影響を受けてたかなどの言語の分析には凄く役に立ったし、また機械語ではないプログラム言語を開発する上でも役に立ったと思います。

しかし、おいらがその頃強く思っていたのは、よく試験問題で出される「言い換え」問題についての疑問。
本当に言い換えた文章は同じ意味の文章なのだろうか?と言う疑問と、同じ意味ならどっちを使えばいいのだろうか?とか当たり前の疑問。
そこで学校英語がやっていることは、ホントに馬鹿なんですけど、英語A=日本語A、英語B=日本語Aであれば英語A=日本語A=英語Bだから、英語A=英語Bという考え方を押し通すのです。
日本語を仲介させて2つの英語が等価の意味だと。

こんな暴虐な論理が許されていいのでしょうか?数学でもあるまいし。私はその頃には英語Aと英語Bが存在する理由(レーゾンデートル)は、異なった使い方をするからなのだと直感的に推論していました。

その理論を実証してくれる論文を探していた訳です。生成文法ではその推論を実証してくれる理論にはなり得ないことがすぐに分かりました。

そこで目についたのが「意味論」です。生成文法はポジションを重視していたため、言葉の意味をほぼ無視していました。そこに疑問を呈したのが「意味論」。
文型の形が変わると意味が変わる、使われるシチュエーションも変わることに注目して、どういったときにそのテクストが選択されやすいかを分析したものです。

一歩前進したと思いました。そこでさらに調べていくと「認知意味論」という本に出会いました。

認知意味論で凄いと思ったのが、人は生まれてからしゃべれるようになるまでに、大量の言語をインプットされ、スキーマ構造というものが形成され、喋れるようになるというもの。
スキーマ構造というのはコトやモノに対する「イメージ」のことで、様々なコトバを体験することで成長していきます。

まさにこの考え方だと思いました。つまり英語のスキーマと大体似通った日本語を選択することが、本当に翻訳することなんだという結論に至りました。(つづく)